写真左から:堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO 堀場 厚、甲南大学 先端生命工学研究所 杉本直己 特別客員教授
堀場雅夫賞は今年第20回の節目を迎えます。分析・計測は科学技術の発展に欠かせない役割を担うにもかかわらず、新たな分析・計測技術につながる研究とそれら研究者を取り巻く環境は決して恵まれたものではありません。HORIBAの創業者である堀場雅夫は苦境に立ちながらも真摯に技術開拓に取り組む研究者を奨励したいとの強い思いを抱き、2003年に私財を投じて本賞を設立しました。より豊かな未来を切り拓くために、それを実現する科学技術の発展を支える分析・計測技術の芽を育てることを目的とした本賞は、創業者の意志を継ぎ、研究対象となる分野を毎年吟味して、多方面の研究分野からユニークな発想の研究を見出しています。
第1回堀場雅夫賞を受賞された甲南大学 先端生命工学研究所の杉本直己 特別客員教授は本賞受賞を契機に、ご研究を一層深められ、核酸化学研究の分野の第一人者として広く国内外でご活躍されています。この度は、第20回の節目を記念し、堀場雅夫賞アワードディレクターを務める堀場厚と杉本先生との対談を通して、堀場雅夫賞へのおもい、そして未来を創る研究者につなぐおもいを語っていただきました。
杉本 実は堀場雅夫賞は、私が人生の中で最初にいただいた大きな賞です。本賞の受賞がその後の研究人生に大きな影響をもたらしました。そういう意味でとても思い入れがある賞の一つです。私は堀場雅夫さんと同じ京都大学理学部出身なので、堀場製作所のことはよく存じていました。賞の存在を知って、ちょうど募集テーマがその頃に研究していたテーマに沿っていたので迷わず応募をしました。
堀場 受賞対象となったご研究テーマは「DNAをセンシング素材として用いた細胞内pH測定法の開発」でした。先生は核酸に着目してご研究を広げていらっしゃいますね。
杉本 遺伝子の本質を担う化学物質「DNA」と「RNA」の研究をしています。1953年にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがNature誌に論文を発表しました。ワトソンとクリックの発見したDNAの二重らせん構造(1962年ノーベル賞)はアインシュタインの相対性原理とともに二十世紀の二大大発見とも言われています。
当時は二重らせん構造の塩基配列(並び方)さえ読めれば全ての人間の性格・病気がわかるだろうとの考え方が主流で、「ヒトゲノム計画」が米国で組織されるやいなや世界中でゲノム研究が加速しました。その後、ヒトゲノムが解読されて、核酸の研究もそろそろ終わりが見えてきたかなと感じていた頃合いに、おもしろい現象を発見したのです。それが堀場雅夫賞受賞につながった「アンチパラレル型二重らせん構造のpH変化」です。
DNAが形成する二重らせん構造の中にある一本の鎖がある方向を向いていると、もう一本の鎖が逆の方向になることが知られていました。そこで、核酸の周りの環境を変えたらどう変化するかを見てみたくなりpHを変えてみたところ、逆方向を向いていたアンチパラレル型の鎖がパラレル型の平行になることを発見しました。pHの変化で方向性が変わるなんてとてもおもしろい現象なので研究を進めました。ある時、蛍光物質をアンチパラレル型の鎖の端につけると、逆方向の時には離れているために影響を受けないのですが、平行になると蛍光分子間でのエネルギー移動が起こり色づくという現象を見つけました。この現象がセンサーに使えることに着想して、受賞対象となった論文「DNAをセンシング素材として用いた細胞内pH測定法の開発」を仕上げました。このpHセンサーは素材がDNAなので細胞内に取り入れることもできます。細胞内のpHがどのように変化するかを見ることもできます。このように、ちょっとした周りの環境を変えれば色々な可能性が見えてきました。しかし、発見当時は後々凄いことに結びつくことや生物学的な意味があることにまでは気がついていませんでした。
堀場 堀場雅夫賞は、若手の研究者・技術者を支援する為に設けられた賞です。ある程度の認知度を持った研究に対するサポートはありましたが、科学発展の起爆剤となる新規の研究を奨励する賞がなかったことから、創業者である私の父、堀場雅夫が設立しました。
父は大学で核物理を学んでいました。先の大戦で大学での研究を継続できなくなりましたが、どうしても研究を続けたいとの強いおもいから自ら研究所を設立し、学生ベンチャーの先駆けとなったのです。当時はエレクトロニクスという言葉がなく、無線という言葉しかなかったので、立ち上げた研究所を「堀場無線研究所」と名付けました。ところが、研究所を設立したのは良いものの、研究だけでは食べていけないということで、さまざまなことを手掛けました。はじめはコンデンサーに着目をして会社をスタートしましたが、朝鮮戦争のあおりを受け資金繰りが悪化したことや、使用していた海外製のpH計の性能が日本の気候と合わなかったことから、pH計の自社開発に踏み切りました。これが大ヒットしたことから、pH計を起点に分析ビジネスを生業にすることになりました。自分が「おもしろい」と思ったことを追求した結果、道が拓け、食べていくために始めた研究が実を結んだのです。先生のご研究も、きっかけとなる研究にたどり着かれたのは「おもしろさ」を感じておられたからではないでしょうか。
杉本 そうですね、核酸の研究が一番やりたいことで、ずっと続けたいとの気持ちを強く持ち、おもしろさを感じて研究に取り組みました。pHセンサーにつながる研究は、いくつか手掛けていた核酸の研究の一つを応用したものです。
単純にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックだけを見て、生物学の基本原理である塩基配列だけが遺伝の役割を握っているなどと考えを固定してしまうのはおもしろくありません。核酸が二重らせん構造として固定されているものだったら、そう考えるのも間違いではないかもしれませんが、色々な構造が周りの環境によって作られているのであれば、それが何を意味するかを追求していくことが研究の醍醐味です。おもしろいと感じることを追い求めることで、DNAの構造が二重らせん以外の構造によって機能を制御していることがわかってきましたし、三重、四重らせんの構造についても論文をたくさん出すことにもつながりました。
堀場 まさにおもしろさの追求が研究の道を切り拓いたのですね。創業者がこの賞にかけたおもいを第1回堀場雅夫賞の受賞者である杉本先生が体現されていることに感激を覚えます。
杉本 堀場雅夫賞受賞の翌年に兵庫県の科学賞、さらに次の年にニューヨークで国際銅協会賞など数々の賞に恵まれましたが、堀場雅夫賞の受賞により最も良かったことは、核酸は塩基配列さえわかれば全てわかるという流れに一石を投じたことです。もっと核酸の研究をやらないといけないという機運が生まれ、2017年には日本核酸化学会が新たに発足しました。それまで日本にはなかった組織で、光栄なことに初代会長を拝命しました。その後も2018年に国際核酸化学会のインバッハ・タウンゼント・アワードを受賞、2020年には日本化学会賞受賞というように堀場雅夫賞をきっかけに受賞が続きました。
さまざまな賞の受賞をきっかけに、核酸が色々な構造、機能を持っていることが世の中にも広く知られるようになり、世界中の研究者で核酸化学のハンドブックを作るきっかけにもなりました。その全てのルーツは堀場雅夫賞の受賞といえます。
堀場 受賞をきっかけに先生のご活躍の場がさらに広がったことは大変うれしく、光栄なことです。実は、この20年で海外からの応募も増えて、今では応募の半数は海外からいただくようになりました。
杉本 私の経歴を見て、堀場雅夫賞の受賞者であることを知った研究者から堀場雅夫賞に応募したいといの相談を受けることがあります。私は堀場雅夫賞をきっかけに道が拓けた経験から、多くの人に挑戦して欲しいと思っています。ただ、毎年テーマが変わることから、研究テーマが応募対象に沿わないこともあって、応募を断念されることがあります。
堀場 テーマを毎年変えているのは、HORIBAの事業領域が広く、一つのテーマに留められないという背景があります。どのテーマも弊社の事業と関連のある分野から、それぞれの分野の「ほんまもん」の研究や可能性を知りたい、奨励したいというおもいがあります。
実は正直に言いますと、父がこの賞を始めた当時、私はなんということを始めてくれたのだと思いました。というのも、当時のHORIBAの規模で、論文を集めて審査をし、賞を運営するなんてことは全く無謀な考えでした。また、多くの著名な先生方に来ていただいて失礼があってもいけないので、そういう意味でも内心では大変なことを始めてくれたものだと思いました。ところが、10年くらい経った頃からこの賞があることの凄さ、父の先見性を思い知らされました。企業が主体となって授与する著名な賞は世の中にたくさんあります。それらと比べると、堀場雅夫賞の賞金は金額的にも大きくはありません。しかし、賞の根幹を成すスピリットには拘りをもっています。応募してくださる先生方のご研究、そこから選ばれる研究の数々は先見性のあるとても良いセレクションになっていると自負しています。
また、受賞を通してさまざまな分野の先生方とつながりを継続できていることがHORIBAの財産になっています。式典を開催することではなく、そのプロセスが大切なのだということを父が伝えたくて、この賞を創ったのだということが後々になってわかってきました。そのような意味で、過程を大切にすることが「ほんまもん」を生み出す源流なのだと感じています。
杉本 とても素晴らしいことだと思います。
堀場 先生のお話を聞いて、そのことを再確認することができました。そのうえ、何度目かの開催で「ほんまもん」の方々を導き出せたというのではなく、第1回目から先生のようにこの賞をきっかけにその研究の幅を広げられたというのは素晴らしいことだと思います。
堀場 企業というのはどうしても利益だけを追求しているように思われがちですが、実際はそれだけで生き残れるものではありません。HORIBAは私の祖父である堀場信吉※、そして父である堀場雅夫の存在がアカデミアとの強い連携を築いてきましたし、それが私たちの経営のベースとなっています。
杉本 私はよく「ジェネラリティとスペシャリティ、このどちらをあなたはやっているのですか」と問いかけるようにしています。大学ではジェネラリティを追求し、企業では追求が難しい、高い次元の一般法則、概念、原理、結果を出すことに集中した方がいいと考えています。一方で、企業の研究は大学で出された成果を見て、「それならあれに使える」、「これに使える」といった一点で力を出すスペシャリティとして発展するものと考えています。 大学の研究者は、アドバイスを出す立場です。大学は何かに応用できるとか、そういうことは考えなくていいというのが持論です。時流に乗っていないかもしれませんが、大学ベンチャーを創りたがる若手の研究者に対しては、企業と一緒に研究をすべきだと思います。ジェネラリティとスペシャリティがうまく組み合わされば、物凄いイノベーションが起こると思います。
若い研究者には自分がどちらの立場でやっているかいうことをはっきりさせて欲しいですね。中途半端はダメです。ジェネラリティとして「成功するか失敗するかわからないけれども凄いことをするのだ」となるか、スペシャリティとして一点集中で「癌」だけをやろうとか、「pHセンシング」だけやるぞ、という気概をしっかり区別して、自分の研究を見つめたほうが良いです。
堀場 大学も企業もそれぞれの得意とするところを伸ばしていけば、より良い未来社会を創る大発見につながりそうですね。
堀場 今の日本の若者の資質は決して悪くありません。ただ、多くが失敗を知らないまま社会に出ることを余儀なくされています。「チャレンジをして失敗する」ということは大切な経験である、という教育をもっとしなければいけない。失敗させない教育はやめるべきだと考えています。そして、そのような指導は失敗を経験した人でないとできません。そういった意味では、必要以上に失敗した人を叩く風潮のメディアの在り方を危惧しています。失敗すれば人を代えればいいというものではありません。
杉本 国際性は我々が若い時よりもはるかに劣っていると思います。我々の頃は、博士号(PhD)をとって海外へ行くのは当たり前でしたが、今はほとんど海外へ行きません。国が手厚く奨学金、給与制度を作り、留めおいているからではないかと考えています。海外の人をみると物凄く国際性が高い。彼らは日本のことをよく知っていますが、日本の学生に海外のことを聞くと、日本の未来は大丈夫かと思うほど知らないことが多いです。この国際化のレベルで、この先、日本はどのようにして世界と立ち向かうのか、危惧しています。
堀場 日本の教育はきめ細かさが足りていないと思います。指導者側が仕事をしやすいシステムを追求するばかりで、学生のためのシステムになっていません。
杉本 歴史的に日本が大きく動いたのは黒船の時代と明治時代。その頃と同じくらいかそれ以上の物凄いスピードで学問は動いています。サイエンスは特に速いです。昔なら一つ研究の成果を出せば100年食べていくこともできましたが、今は5年も食べていけません。それくらいのスピードで動いています。どこに自分の立ち位置を取るかという事を誤ると大変なことになります。
ジェネラリティを求めて、スペシャリティは企業とともに、うまく両立・協働しないとこれからは苦しくなると思います。
堀場 HORIBAはこの30年来、利益の6割が自動車関連ビジネスによるものでした。そのビジネスで稼いだ利益を10数年赤字が続く事業部門に継続して開発投資していました。ある時、一転して稼ぎ頭の自動車関連ビジネスが赤字に転落し、会社は大きな危機に直面したのですが、その時にそれまで投資していた赤字事業部門の利益が一気に上がったのです。このタイミングが2、3年ずれても大変なことでした。
この今までどうしようもなかった事業部門こそ、現在の稼ぎ頭となっている半導体ビジネスです。今や半導体製造装置に組み込まれるHORIBAのマスフローコントローラーは世界シェアの6割を占めています。30年前は世界で10社ほどの競合がしのぎを削っていたのですが、時代の変遷とともに世界で数社だけになりました。利益のでない10数年の間、赤字に耐えながらも「ほんまもんの技術」を追い求めて開発をしていたからこそ、結果的にうちが生き残り、成功につながったのです。
杉本 「時代をよむ」というと、どういう風にモノが動くか、先を「よむ」ものだと思う人がいますが、サイエンスをやっている人はそうではない。「よむ」のではなくその「潮流をつくる」ことです。そっちに気持ちを向けて行動を起こすほうが重要だと思います。
例えば、モデルナ社が伸びた背景にあるのはCOVID-19の感染拡大です。私が「彼らはCOVID-19の流行にうまく乗って伸びたのではなくて、その前からいつそれが出てくるかわからないながらもビジネスの準備をしていたのだ」と話をすると、そういう風に説明してもらえると「わかる」と学生は言います。しかし、「わかった」というのは最初に誰かがやっているから「わかる」ということで、それで「わかった」と言うのは感心しません。
若い人にはどんな問題(研究課題)を選ぶかによって勝負は決まったのも同然だから、本質的な問題を選びなさいと言っています。100点満点の問題で80点、90点を取るより95点がいいという競争に慣れた日本社会の考え方では、世界では通用しません。先はわからないけど、自分がこれと思うものを選んで挑戦する信念を持つことです。研究は常に先が見えないもの。たとえ思い描くゴールに対する成果が10%しか到達していなくとも、10%もの領域まで到達したと捉えることが大事なのです。あらかじめ設定された点数に対して、満点に近い点数をはじきだすことだけを目標に競争しているような連中は歯牙にもかけないというのが研究者の矜持だとよく言って聞かせています。ただ、それを理解する日本の若者が少ない。
堀場 日本人は定型の教科書で学ぶことに慣れてしまっていますし、教科書の内容を修めることが優秀だと周りが認めてしまっていますが、それがゴールではありません。単に良い大学に入ったというだけで優秀だと勘違いする社会になってしまっていることを大変危惧しています。「時代をよむ」のではなく「潮流をつくる」という、独創性が最も大切なことだという考えは、唯一無二の「ほんまもん」の技術にこだわった創業者のおもいに近いものだと感じます。堀場雅夫賞が「潮流をつくる」起点となっていけば喜ばしいことですね。
杉本 この堀場雅夫賞を国際賞にしていくべきだと思います。海外での募集、アピールをどんどんしていっていただきたい。堀場雅夫賞かノーベル賞か、というレベルになって欲しいですね。益々のご発展を祈念しています。
堀場 堀場雅夫賞を通して、HORIBAはアカデミアと良い関係が築けていると思います。科学技術の進歩にともない、分析・計測技術のニーズも無限に広がっています。先生のご期待に沿えるよう、分野に捉われず多方面にアンテナを張り、より魅力的な賞になるように、そして「潮流をつくる」ことのできる「ほんまもん」につながる唯一無二の賞である自覚をもって、しっかりと受け継いでいきます。本日はありがとうございました。
(インタビュー実施日:2024年5月)
※掲載内容および文中記載の組織、所属、役職などの名称はすべてインタビュー実施時点のものになります。
※堀場信吉
創業者 堀場雅夫の父であり京都帝国大学理工科教授を務めた堀場信吉(ほりばしんきち)博士は、1942年から45年にかけては京都帝国大学化学研究所長として、日本の科学技術発展と後進の人材育成に尽力しました。欧州留学と京都大学で堀場信吉が心血を注いだ研究は、戦後においては食糧増産に貢献し、現代では水素利用をはじめとするエネルギー分野にも応用されるもので、ともに各時代における堀場製作所の注力事業とも深い関わりがあります。また、大阪公立大学の前身にあたる、浪速大学学長をはじめ、大阪府立大学学長や京都市立音楽短期大学(現・京都市立芸術大学音楽学部)学長なども務め、高等教育教育の発展と人材育成に尽力しました。
杉本 直己(すぎもと なおき)
甲南大学 先端生命工学研究所 特別客員教授
[経歴]
京都大学理学部
京都大学大学院 理学研究科修士課程
京都大学大学院 理学研究科博士後期課程 理学博士
米国ロチェスター大学 博士研究員、リサーチアソシエイト
甲南大学 理工学部 機能分子化学科教授
甲南大学 先端生命工学研究所(FIBER)所長・教授
現在、甲南大学 先端生命工学研究所 特別客員教授
[専攻・研究内容]
生命分子化学,ミクロな分子の立場から生命の本質を理解する。具体的には核酸や蛋白質の未知の機能を発見し解明すること