《ひまわり》、《星月夜》といった数々の名作を世に残したファン・ゴッホ(1853年~1890年)。27歳で画家を志したゴッホは、亡くなるまでの10年間で約2,000点の作品を手がけました。そのなかで、1950年代から行方不明となっていた水彩画≪草地、背景に新しい教会とヤコブ教会≫が、約70年ぶりに日本で発見されました。本作品の調査に、HORIBAも協力しました。本調査を主導され、美術品の保存や修復を図る「コンサベーター」としても活躍される東海大学 田口先生に、「科学の目」で見たゴッホ作品の魅力やコンサベーターとしてのおもいを聞きました。(掲載内容は取材時点の情報です)
東海大学 教養学部 芸術学科 准教授/情報技術センター 研究員
田口 かおり
HORIBA Talk: ≪草地、背景に新しい教会とヤコブ教会≫とは、どのような作品ですか。
本作品は20代の若きゴッホが、オランダのハーグ郊外にある田舎の牧草地を描いた水彩画です。ゴッホは油彩作品を多く残していますが、当時は水彩画の可能性に興味を持ち、表現の幅を広げようと模索していた時期です。勉強熱心だったので、教則本に書かれている技法を試したり、使用する紙を変えたりと実験を繰り返していました。
手前の前景に水辺と緑豊かな植物が描かれ、中景には、なだらかな牧草地に佇む人と牛たち、そして奥行きのある家々や教会が立ち並び、一番上の後景には空が描かれています。手前から奥に向かって開けた奥行きを感じさせる構図が特徴的です。前景、中景、後景の3つを強調し表現するゴッホのスタイルと傾向は、ゴッホが描いた別の作品などにおいても見て取ることができます。
HORIBA Talk:本作品を調査することになった経緯を教えてください。
ゴッホが弟・テオに宛てた手紙に、本作品について言及している箇所があるものの、長い間、行方がわからないままでしたが、さまざまな経緯を経て、近年、丸沼芸術の森に所蔵されました。そして、丸沼芸術の森さま、埼玉県立近代美術館さま、ゴッホの調査をずっとご一緒している修復家の森直義さんが代表を務める森絵画保存修復工房さま、新しい調査手法を示してくださった株式会社アイ・アール・システムさま、調査を記録してくださったNHKエンタープライズのみなさま、そして≪ドービニーの庭≫(1890年)の調査実績や、以前≪草むら≫(1889年)の分析をご一緒した経緯からHORIBAさんと共同で調査を行いました。科学調査によって作品を保存するための情報はもちろんのこと、ゴッホが試行錯誤した跡や、ゴッホの描画の特徴などが見られるのではないかという期待がありました。
HORIBA Talk:調査を進めるなかで特に印象に残っているところはありますか。
「空」の表現が、特に面白かったですね。
蛍光X線分析装置※で検出された雲の絵の具に含まれる元素に色を付けて見ると、雲がたなびくような空の様子と、ゴッホの筆使いがわかります。これほど表情豊かに描いているのだと驚きました。
「ゴッホらしい色の載せ方」を見て取れたところも興味深かったです。
中央の人や牛の背景にある建物の窓辺に、小さな点がいくつかあるのがわかりますか?(下図)
町明かりなのか、人がいることを示すものかを明確に断定することはできませんが、何かがあることを示すために、彼は絵の具をぽつん、と置くことがあります。そのまま絵画を見ると、誤って絵の具が飛んでしまったのではと思う方もいるかもしれません。ですが、蛍光X線分析装置で科学的な調査をすると、すべての小さな点には同じ素材(色)が使われており、意図的に表現していることが推測できるのです。
次に、中央の牛を見てみてください。同じ白でも実は使い分けていて、鉛白という白い絵の具で牛の形を描いた後に、腰から尻尾、足の一部などはジンクホワイトという絵の具で強く際立たせています。空、家の窓などでも、光の表現や色使いが立体的に見えてきます。
また、手前に描かれている植物の表現を見ると、いろいろな色調の緑を重ねているところがあります。ポーラ美術館に所蔵されている≪草むら≫(1889年)の描き方に似ています。複数の同系色の色を重ねて深みを出す手法は、ゴッホが油彩で試みることと重なります。
画家が試行錯誤した跡や、作品の変遷をストーリーとして見られるところが、科学的な調査の醍醐味です。詳細の分析結果は今後公開する予定ですので、「科学の目」で見た作品の面白さを感じていただければうれしいです。
HORIBA Talk:普段はどのような研究をされているのでしょうか。
主に絵画や現代美術の保存・修復を専門にしています。イタリアで絵画保存修復のディプロマを取得し、しばらく実践の場にいました。日本に帰国してからは、保存・修復の技法や思想の変遷などを主に研究していましたが、その過程で、イタリア滞在時とはまた異なる多様な美術作品の保存・修復に携わる機会が増えました。プロジェクトのなかで明らかになった新たな事実については可能な限り公開し、さまざまな領域の専門家を含む多くの方々と情報を共有することで、広く活発に「これは一体どういうことなんだろう」と検討や討議ができるような環境をつくりたいと思っています。
HORIBA Talk:コンサベーターとして、大切にされていることを教えてください。
作品の保存・修復というと「手を動かして直す」、「傷ついた箇所を繕う」というイメージが浮かぶと思います。しかし、私たちの仕事は、まずは「観察すること」から始まります。保存方法を考えるうえで、作品の素材やこれまでの修復の経緯を正確に捉えるために、よく見て、よく考えることが大切だからです。
作品は「情報の宝庫」。正面から見てわかる情報はもちろん、側面や裏面、内部構造といったあらゆる角度から作品を観察していくと、どういう経緯で今作品がこの形をしているのか、なぜここだけ色が異なるのかといったような疑問が湧いてきます。そして、肉眼では見ることができないものに関しては、科学の力も借りて構造を分析し、作品が制作されてから今にいたるまでのタイムラインを再構築します。こうした試みを通じて、作品の歴史、特徴があらためて浮かび上がってきます。その物語を多くの方々と共有し、もう一度作品に出会い直す機会をつくることをめざしています。
また、私たちコンサベーターは「橋」のようなものです。後世のためにどんどん「橋」をかけていかないといけない。作品が次の世代に受け継がれ、修復・保存が繰り返されていきますので、これまでの調査結果や修復内容を正確に記録することを心がけています。私自身、過去の修復記録が残っている作品を修復することがありますが、そうした記録はとてもありがたい情報です。50年前の状態や、何十年前にこういう材料で修復したものが今こうなっている、というような経緯がわかると、時に前回の課題を克服する修復手法に挑戦することができるからです。先人に助けてもらっているように、私もしっかりと自分の選択の詳細と理由を記し、伝えていきたいと思っています。
HORIBA Talk:今後の展望を教えてください。
もともと絵画を中心に取り組んでいましたが、最近では源氏物語図屏風や考古遺物の調査・保存・修復のご相談を受けるなど、幅が広がってきています。こういった経験が、最近取り組んでいる現代美術作品の分野にも生きていると感じることがあります。対象が変わっても、作品に向き合う姿勢や、自分が意識すべきことは変わりません。これまでの自分の学びを土台に、素材への知識をよりたくさん増やしていきたいと考えています。
また、保存・修復の道を進むうえでは、一人では立ち行かないことが数多くありますので、様々な分野における研究者の方との繋がりを大切にしたいですね。沢山の方々と一緒に研究を進めることで、一人では見ることのできない新たな世界が開けた時に得られる感動は格別です。
東海大学 教養学部 芸術学科 准教授 / 情報技術センター 研究員
田口かおり
1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科を修了し、フィレンツェ市内の修復工房で勤務。2014年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号(人間・環境学)取得。東北芸術工科大学・日本学術振興会特別研究員PD、東海大学創造科学技術研究機構・特任講師(文部科学省卓越研究員)を経て、現職。作品の保存・修復や研究を行いながら、展覧会のコンサベーターとして来日する作品の点検やメンテナンスにも携わる。
※ 蛍光X線分析装置:
X線を物質に照射することで、元素に固有のX線(蛍光X線)が発生します。その蛍光X線を捉えることで、物質に含まれる元素の種類と量を非破壊、非接触で評価する装置です。