絵画や美術品などを収集し、調査・公開を行う公益財団法人吉野石膏美術振興財団(以下、吉野石膏美術振興財団)様より依頼を受け、堀場テクノサービスが、中世ヨーロッパの彩飾写本リーフ(紙葉)の顔料※1 分析を行いました。もとは別々の手書きの本のなかの1ページだった2葉を比較し、見た目は同じ青でも異なる元素であることや、片方には当時貴重で高価だった顔料が使用されていることなどが明らかになり、写本の所有者や制作者の推定につながる分析結果が得られました。
彩飾写本リーフの調査に科学分析がどのように役立つか、吉野石膏美術振興財団の西田様と佐藤様にお話を伺いました。
※1 顔料:着色に用いる、水や油に溶けない白または有色の不透明な粉末。
貴重な作品を非破壊で分析
HORIBA Talk:彩飾写本リーフを収集されている背景とこの2葉のリーフを入手された経緯を教えてください。
西田様:当財団は、芸術文化に関する活動支援を目的に、アーティストへの助成や所蔵する絵画コレクションの公開と調査研究、アートライブラリーの運営などの活動を行っています。今回分析していただいたのは、アートライブラリーが所蔵する15世紀のフランスで作られた彩飾写本リーフで、本の歴史を辿る調査研究の一環で収集したものです。動物の皮を薄く削って作った羊皮紙の上に、絵と文字がすべて手で書かれています。アートライブラリーでは、このような写本だけでなく、印刷術が始まった初期のものや、美しい書物が流行った時代のものなど、美術的、歴史的価値の高い本を展示して一般の方に見ていただきたいと準備を進めています。
初めに聖セバスティアヌスが描かれたリーフがコレクションに加わり、その後、制作時期やレイアウトなどが似ているダヴィデ王のリーフを入手しました。どちらも500年以上前のものとは思えないくらい色鮮やかで、絵も文字も美しく希少価値が高いものになります。
HORIBA Talk:大変貴重な作品なのですね。これらリーフは写本のなかの1ページということですが、元はどのような本だったのでしょうか。
西田様:いずれも中世ヨーロッパのキリスト教信者がお祈りを捧げるために所有する時祷書(じとうしょ)のなかの1ページです。時祷書は一般的に携帯できるくらいの大きさの100~200ページ程度の一冊の本で、13世紀の中頃に登場すると、“中世のベストセラー”といわれるほど大量に生産されました。王侯貴族の注文による豪華なものから、中産階級向けの既製品に近いものまで、印刷術が誕生した後も16世紀ごろまで作られ続けたのです。しかし、これは時祷書に限らないのですが、写本というものは長い歴史の中でさまざまな事情で破壊されたり、装飾部分だけが切り取られ、残りは破棄されたりと損傷を受けてきました。一冊まるごとの形で残った貴重な写本の多くは、すでに美術館や図書館に収蔵されていますから、私たちが探せるのはおのずと一枚物のリーフになりました。それでも、良品に新たに巡り合うのは簡単なことではありません。それだけに、装飾も文字もともに素晴らしいクオリティで、保存状態がとても良い聖セバスティアヌスのリーフをアメリカの貴重書販売店から紹介されたときはとても興奮しました。
HORIBA Talk:運命の出会いですね。そんな貴重なリーフの科学分析をHORIBAに分析依頼いただいたきっかけと目的を教えていただけますか。
西田様:基礎調査の一つとして、リーフに使用されている顔料を調べる目的で科学分析を依頼しました。
佐藤様:以前、私どものコレクションであるフィンセント・ファン・ゴッホの絵画「白い花瓶の薔薇」の状態を確認するため、修復士の森絵画保存修復工房 森 直義代表を通じてHORIBAさんに分析を依頼したことがあります。そのゴッホの作品分析で有用な情報を得ることができたため、今回も同様の調査をしてデータが得られればと考えました。HORIBAさんの製品カタログから、海外ではネパール写本リーフの分析実績もあることを知り、前回の調査とリーフの分析実績からHORIBAさんに依頼しました。貴重な資料になりますので、非破壊で分析できることも魅力でした。
顔料分析の様子
見た目では分からないものも科学データで証明
HORIBA Talk:リーフに描かれた絵に込められた意味も教えていただけますか。
西田様:時祷書は、ある程度様式化されており、章が変わるごとに挿絵が描かれることが多く、豪華なものほど絵や飾り文字、余白の装飾模様などがたくさん施されますが、絵があまり入っていない簡素なものもあります。
旧約聖書の重要人物であるイスラエルの王ダヴィデが描かれたこのページは、竪琴の名手だったダヴィデ王が、その竪琴と王冠を地面に投げうち、ひざまずいて神に悔悛の祈りをささげている情景です。これは時祷書に描かれるダヴィデの典型的な構図です。
一方、もうひとつのリーフに描かれているのは聖セバスティアヌスという聖人です。3世紀頃のローマの軍人だったのですが、キリスト教を信仰していることが発覚して迫害を受けます。これは彼が木にしばられ、無数の矢に射られているところです。実はこの時は奇跡的に命を取り留めたのですが、その後はこん棒で殴り殺されて亡くなりました。数ある聖人のなかでも、聖セバスティアヌスは多数の矢を浴びても生き延びたことから、疫病に対する守護聖人として中世ヨーロッパの多くの地域で崇敬されていました。
佐藤様:時代は変わりますが、聖セバスティアヌスは若い半裸の男性の姿がイケメンの代表として人気を博した時代もあります。宗教的に重要な意味を持つと共に、鑑賞としても好まれたようです。
HORIBA Talk:彩飾写本リーフの歴史、とても興味深いです。分析結果からはどのようなことが分かりましたか。
西田様:最も大きな発見は空の部分です。いずれも空の部分は一見同じ青色で、肉眼で違いを判別することは難しいのですが、分析してもらうと違う元素が検出され、同じ青でも違う顔料だということが分かりました。
ダヴィデ王のリーフにはアズライト(藍銅鉱)といわれる鉱物に含まれる銅が主成分として検出されました。一方、聖セバスティアヌスの空に使われている青い顔料からは、ラピスラズリという宝石の主成分のラズライト(青金石)に由来すると考えられるケイ素とアルミニウムが検出されました。
アズライトはヨーロッパに産地があり、比較的手に入りやすかったのですが、ラピスラズリはヨーロッパでは採掘できず、はるかアフガニスタンから入手していたといわれています。海を越えて運ばれてきたことでウルトラマリンとも呼ばれました。ラピスラズリを使えたということは、写本の注文主がお金持ちであったと推測できます。また、聖セバスティアヌスの細密画を描いた画家の画力は非常に高く、細かいところまで描き込まれており、思わず見入ってしまうほどです。聖セバスティアヌスのリーフはダヴィデ王のものに比べて、豪華な造りであることは予測できましたが、分析することで、さらにそれが裏付けられたことになります。
聖セバスティアヌスのリーフ:アルミニウム(Al)とケイ素(Si)を検出
ダヴィデ王のリーフ:銅(Cu)を検出
西田様:聖セバスティアヌスのリーフでは、飾り文字の「S」にも青が使われており、この青は空の成分とは異なって濃い青はアズライト、線が小さく入っている薄水色の部分はラズライトと塗り分けがされていることも分かりました。
また、金のあしらい方にも注目できます。聖セバスティアヌスの頭にある光輪に使われている金と、太陽の金との違いがわかるでしょうか。写本に金を施すときは、薄い金箔を土台のメディウムの上に貼る方法と、メディウムに金粉を混ぜて作った金泥を塗る方法があります。ここでは、光を受けてきらきらする金箔が光輪部分に、マットな輝きの金泥が太陽にと使い分けられています。肉眼では光輪のほうが輝いて見えるのですが、分析では太陽のほうが金の強度が強くでました。金泥は、薄くのばした金箔よりも多くの金が必要であることは知られており、まさにそれが証明される結果となりました。他の部分も調べればもっといろいろなことが分かるのではないかと期待できます。
聖セバスティアヌスのリーフ:金(Au)を検出
科学分析と歴史資料を合わせて調査を展開
HORIBA Talk:顔料の分析から写本の注文主の人物像や技法も推測できるのですね。他にも分析によって解明できることはありますか。
西田様:この二つの作品についてもまだ調べ尽くせていないため、X線以外の分析手法も用いて、今回分析した無機顔料※2だけでなく、有機物由来の染料や文字のインクについても明らかにできればと考えています。また、比較して分かることもあるので、サンプルを増やして継続して調査を進めたいと思っています。描かれている図像、装飾様式や文字、レイアウトなどを調べることは、その写本が作られた場所や時代を知る手がかりになります。歴史的背景や当時の文化、写本制作の背景なども調査し、歴史と写本の制作技術を合わせた視点で研究を続けたいと思っています。
聖セバスティアヌスのリーフは、同じ工房のものと思われる作品がヨーロッパ、アメリカなどで保有されていることがわかっているので、今回の分析結果も含めて情報交換できればと思います。ばらばらになってしまったページの情報をシェアすることで、元々の本の姿に迫ることができるかもしれません。もちろん簡単なことではありませんが、海外ではそのようなプロジェクトが実際に始められています。
※2無機顔料:天然の鉱石や金属の化学反応によって得られる酸化物などから作られる顔料
佐藤様:美術的観点からいうと、イニシャルの色の塗り方など、見た目では重ねて塗っているように見えますが、実は塗り分けをしていたのではないかという可能性が出てきました。使用された顔料だけではなく、技法の調査も科学分析を活用できるのではないかと思います。
同じ時代の写本であまり見られなかった技法だとすれば、同じ人が描いたのではないかと推測できます。顔料と技法の両面から見ることで、さらにいろいろなことが分かるようになると思います。
堀場テクノサービス Analytical Solution Plaza(アナリティカルソリューションプラザ/東京)前にて
HORIBA Talk:今回、西田様にとっては初めての科学分析だったとお聞きしました。初めて科学分析を行っての感想や、今後「はかる」技術に期待すること、ご要望などがあればお聞かせください。
西田様:私は美術品を分析装置で測ること自体が初めてで、分析前は知識がなく不安でしたが、社員の方がとても親切に、丁寧にアドバイスしてくださり、そのおかげですんなり知識が入ってきました。思いがけないことも分かり、大変満足しています。
今回の分析をもとにさらに研究を発展させ、その研究結果を踏まえて良いタイミングでリーフを公開したいと思っていますので、その際はぜひ多くの方にご覧いただければうれしいです。
佐藤様:写本のように軽くて小さいものだと持ち込みできますが、大きくて動かすのが困難な作品もあります。出張調査をもっと確立されたサービスとして提供いただければ、東京にあるものだけでなく、分析していただける作品の幅が広がると思います。そのためにも、軽くて優秀な分析装置をたくさん作っていただきたいです。