私たちが生活していくうえで欠かせない水。
日々の暮らしやあらゆる産業活動によって生まれる汚水は、川や海の水環境を守るため、下水処理場などできれいにしたうえで河川に戻されます。
この汚水をきれいにするプロセスを効率化するためには、pHの管理が欠かせません。
汚水に含まれる人の垢、機械の油分といった有機物の汚れは、微生物が集まる活性汚泥の力できれいにしています。この活性汚泥の働きを活発化させるために、汚水のpHを中性に保つ必要があります。しかし、汚れが激しい処理プロセスでは、pH電極に汚泥が付着することで感度低下が起こり、1日に何度も洗浄、校正するなどメンテナンス負荷が長年の課題となっていました。
2022年10月、HORIBAグループは新製品「無補充式セルフクリーニングpH電極」を発売しました。光触媒技術を応用し、防汚効果を有する世界初※1のpH電極です。
新製品は、有機物汚れの激しい排水処理プロセスでもpHを連続測定でき、お客様のメンテナンス工数を従来比 最大約99%※2削減することに成功しました。
本製品を開発した西尾 友志に、約17年の開発期間中に乗り越えた数々の困難と挑戦を聞きました。
株式会社堀場アドバンスドテクノ
基盤技術研究開発部 マネジャー 博士(工学)西尾 友志(にしお ゆうじ)
セルフクリーニング電極の研究において、環境システム計測制御学会 論文奨励賞(2018年)、優秀論文賞(2019年)、日本分析化学会 奨励賞(2019年)を受賞。
創業者 堀場雅夫からの「汚れない電極を作ってくれ」
開発のきっかけは、堀場製作所の創業者である堀場雅夫(2015年逝去)の言葉です。
私はHORIBAグループに入社して間もなく、pH電極用の洗浄液を製品化しました。その時、創業者から「良い洗浄液を作ってくれた。次は汚れない電極を作ってくれ」と声をかけてもらいました。創業者は経営者でありながら、国産初のガラス電極式pHメーターの開発者でもありましたので、その言葉がすっと胸に響いたのを覚えています。
また、製品化した洗浄液は家庭用洗剤に比べて10倍程の価格にも関わらず、予想以上に反響がありました。もともと電極の信頼性向上のためにラインアップしたものでしたが、「お客様はpH電極の汚れにこんなにお困りだったのか」と衝撃を受けました。これらの経験から、汚れに強い電極を開発しようと決めました。
三重大学 橋本 忠範先生との出会い
2006年、ある協会の会合で偶然にも学生時代の恩師に再会しました。汚れに強いpH電極の開発について相談したところ、三重大学の橋本先生を紹介いただいたのです。橋本先生が所属されている無機素材化学研究室は、ガラス業界で世界的に有名な研究室です。当時橋本先生は、光触媒効果を有するエコガラスを研究されていました。このエコガラスとは、太陽光が当たるとガラスに付着した汚れが分解され、汚れの付着力が弱まることで、汚れにくくなるガラスです。実際に旅客ターミナルビルの一部の窓ガラスに使用されており、清掃回数の低減に役立っていました。
この光触媒効果を用いたセルフクリーニングガラスをpH電極に応用しようと意気投合し、橋本先生との共同研究がスタートしました。
壁を乗り越え、光触媒効果のあるガラスを実現
pHガラス電極は、測定に重要な電極の先端に丸みがあるため、均一に光触媒をコーティングすることが困難です。溶融状態のpH電極のガラスに酸化チタン(光触媒)のパウダーをまぶす手法を試みましたが、思うような性能が得られず、何度も試行錯誤を重ねました。
最終的には、橋本先生の助言のもと、曲面へのコーティングに適したディップコーティング※3という特殊な技術を用いることで、セルフクリーニング電極に必要なガラスの開発を実現することができました。
製品化の壁により、研究開発がとん挫
2008年の頃、色素による実験で、pH電極の性能を維持しつつ光触媒の防汚効果を有する条件が見つかりましたが、研究と製品化の間には深い溝がありました。
分析計は物事を判断する基準になるものだと考えています。特に工業用途では、安定性や精度が低いと一歩間違えば事故や製品不良にもつながります。高い精度・安定性が求められる一方で、pH計は競合他社との差別化が難しく、また生産方法も考えなければなりません。新しい部品を採用すると、その分さまざまなリスクを考える必要があり、研究とは別の難しさがあります。
そこからは、製品化に向けた課題を克服するための試行錯誤が始まりました。
工業用pH電極は、水質管理の監視や制御に使うため、連続使用できることが求められますので、常に電極が防汚されることが理想です。研究の過程で、光触媒をコーティングした部分にキセノンランプ※4の光を照射して汚れを分解することができました。しかし、キセノンランプは非常に高価でした。光ファイバーを電極内部に通すことも考えましたが、光ファイバーは電極と同じぐらいの価格です。太陽の自然光でも効果があるか確認しましたが、全く効果はない。ブラックライトは水中では電極まで光が届かない。工業用電極の厳しい使用環境に適した光源が見つからないまま、その溝の深みに落ち、とうとう研究開発はとん挫してしまいました。
周囲の反対を押し切って研究を継続
2014年、青色発光ダイオードの発明にノーベル賞が贈られました。
幸運にも研究開発が盛んになり、小型の青色LEDが発売されました。このニュースを見て「これなら実現できるかもしれない」と思ったのです。しかし、その時には「汚れないpH電極」の開発プロジェクトは解散し、既に私は、研究ではなく製品化を担う部署に異動していました。
それでも汚れないpH電極の製品化をあきらめきれない私は、周囲の反対を押し切り、本来業務をこなしながらも研究を続けました。孤独との闘いでもありましたが、製品化に光を差すデータの取得をめざしました。
その頃、プライベートのことにはなりますが、双子の子どもを授かりました。大変喜ばしいことですが、育児、研究、そして専門性を極めるために取り組んでいた博士(工学)号の取得に追われ、眠れない日々が続きました。徐々に精神的にも、体力的にも追い込まれていました。それでも、お客様のお困りごとを解決したい、技術者としてこの分野を究めたいというおもいが自らを突き動かしていました。
HORIBAにはブラックジャックプロジェクトという社内の改善活動があります。pH電極の形状を仕上げた段階で、ブラックジャックプロジェクトを活用して開発チームを立ち上げ、社内関係者に協力を求めることにしました。さらに、三重大学の金子 聡先生にお願いし、電極評価の実装試験場所として曝気槽(微生物処槽)を使わせていただき、協力会社も巻き込みました。多くの方々の協力のもと、ようやくUV-LED(紫外線発光ダイオード)を内蔵したpH電極が完成し、曝気槽での実装試験を開始することができました。
試作品を創業者に見せたところ、大変喜ばれて「これが製品化できたら、社内表彰のGold Awardではなくて、さらに上のPlatinum Awardをあげよう」と声をかけてもらい、とても励みになりました。
そんなに甘くはない
実際に試験してみるとUVの強度が弱く、応答ガラス膜の一部のみしか防汚できませんでした。汚れの分解速度が、汚れの付着速度に追い付かなかったのです。
この電極を見て愕然としました。実験室と現場では大きく異なるということは理解していましたが、苦労して積上げたものが一瞬で砕かれた瞬間でした。
そんな時、ちょうどLEDの業者から連絡がありました。「西尾さん、新しいUV-LEDが発売されました。価格は従来のLEDと比べてほとんど変わらず、紫外線強度が10倍ぐらいあります」と。運が良かったのです。エアコンのお掃除機能などでUV-LEDを使った製品の普及により、UV-LEDの需要が高まり、新製品の開発が進んでいたのです。
チームワークにより、ついに製品化
2017年には、ようやく曝気槽で洗浄機能を1~2か月保つ電極ができました。
しかし、性能・安定性・耐久性など製品化するにはまだハードルがありました。壁にぶつかる度に悩み通し、協力会社と共同開発した新素材を用いるなど試行錯誤を重ね、地道に糸口を見つけていきました。
デモ評価に協力いただいた食品工場のあるお客様から「この現場は、私の責任で好きにさせてくださいと上司に言っています。ですので安心してくだい。早く製品ができると良いですね」と温かい言葉をかけていただくことがありました。そこは、夜間や雨の日も、昼夜問わず毎日手作業で電極の洗浄メンテナンスをしている現場でした。本製品の完成を心待ちにしているのが伝わり、さらに身が引き締まる思いでした。
多くの方々の協力により、ついに完成しました。発売を目前とした実装試験に協力いただいた多くのお客様からは「いろいろな洗浄機を試しても効果が無かったのに」「感動しました」「デモ品で良いので購入したい」と好評いただきました。長年の苦労が報われた気がしましたし、開発者冥利に尽きる温かい言葉でした。
【防汚効果の仕組み】
これまでの17年を振り返ると、製品を完成できたのは、お客様や先生方、同僚など「人」に恵まれたこと、そして熱意、粘り強い性格、技術者としての探求心がうまくかみ合ったからではないかと思います。また、こんなに長く研究開発にチャレンジさせてくれる会社はありません。先輩方から引き継いだガラス電極が好きだったことやボトムアップで自分からテーマを進めることができたこと、チャレンジを評価してもらえること、小さな成功を積み重ねて「おもしろおかしく」できる環境が今回の成功につながったと思います。
pHガラス電極は、研究が進んだ完成されたものだと世間一般に思われています。ですが、その可能性はまだまだあると信じています。私の挑戦に終わりはありません。
※1 ガラス電極式pHメーターとして(2022年10月時点、当社調べ)
※2 当社従来製品との比較。使用方法や条件によって効果が異なる場合があります
※3 低粘度のゾルに基材を浸漬し、一定速度で静かに引き上げるとゲル膜が得られる方法。基材に引きずり上げられるゾル層からは溶媒が蒸発し、それにより基材表面上でのゲル化が達成される。ディップコーティングは、大面積のコーティングや曲面へのコーティングが可能である点に特長がある。
※4 キセノンガス中での放電による発光を利用した、強度が強く自然光に近いランプ