水素エネルギー社会の展望

中村 博司* | |   技術論文

*株式会社堀場製作所
コーポレートオフィサー(執行役員)
開発本部 本部長
博士(工学)

新型コロナウイルスの感染拡大は,世界中で多くの国々が経済活動の停滞をもたらし,2020年の実質GDP成長率はマイナス6.3%と第2次世界大戦後最大の落ち込みを記録しました。しかし,この危機への対応策として,多くの国々は環境に配慮した持続可能な経済対策を取り入れることを決めました。欧州連合は,「グリーンリカバリ―」施策を打ち出し,「欧州グリーンディール」を発表し,2030年までに温室効果ガス排出量を半減し,2050年には実質ゼロにすることを目標としました。欧州復興基金の創設も発表され,環境に配慮した政策を支援するための基金として注目されました。米国もバイデン政権に移行し,環境に配慮した政策を打ち出し,G7サミットにおいて温室効果ガス排出量を2030年までに半減することを表明しました。

2050年に「カーボンニュートラル」を実現するためには,再生可能エネルギーを一次エネルギーとして生産された水素「グリーン水素」が不可欠であるとして,欧州委員会は「欧州の気候中立に向けた水素戦略」を発表しました。この戦略では,2024年までに少なくとも6 GW,2030年までに40 GWの水電解による水素製造設備を設置することを目標としました。ドイツやフランスも,国家戦略を策定し,2030年までにそれぞれ5 GW,6.5 GWの水素製造能力を持つことを目指し,多額の投資を計画しています。

注目されている「水素」の産業利用の歴史は非常に古く,1900年初頭に開発されたハーバーボッシュ法で,窒素と水素からアンモニアを生産することによって化学肥料の大量生産を可能にしたことは20世紀以降の人口急増を支えてきました。現在でも,アンモニア製造の他,石油精製,石油化学製品に多く利用されています。しかしながら,2020年の段階で,産業利用される水素の95%が化石燃料の水蒸気改質によって製造される,いわゆる「グレー水素」と言われるもので,製造時にCO2を排出します。

カーボンニュートラルを実現するために,再度注目をされている水素は,不安定な電力供給が課題である太陽光や風力発電などの再生可能エネルギーから作られる「グリーン水素」であり,その利用方法は従来の産業利用に加え,燃料電池を用いて再度電力に変換する方法の他,燃料電池車の燃料としての利用,製鉄での水素還元,あるいは水素を直接燃焼させる水素エンジンや,運びやすいアンモニアに変換した後にガスタービン発電で利用するなど,その利用方法も多岐に渡って研究されています。

HORIBAの創業製品であるpHメーターは,水素の利活用には欠かせない電気化学反応を応用したものであり,さらにカーボンニュートラル社会の実現に欠かせない触媒技術は,創業者の堀場雅夫の先代である堀場信吉が京都大学の研究者として1900年代初めにドイツから学び,日本の化学工学発展を支えました。堀場製作所の創業時やそれ以前から関わりのあった研究や技術が,水素の利活用という今の社会課題への取組にも繋がっているとも言えます。また,1990年代後半から,自動車産業でブームとなっていた燃料電池車開発向けに,水素,水分の直接計測や,燃料改質ガスあるいは水素燃焼ガスの計測技術の開発を行ってきました。さらに,2018年にドイツ,ザクセンアンハルト州に位置するFuelCon社を買収し,HORIBA FuelCon(HFC)社として,燃料電池,水電解の研究・開発用評価装置,製造装置および生産品質検査装置まで,ポートフォリオを拡大しました。そして,2023年1月にはHFC社において生産能力を3倍に拡張した新工場「e-HUB」(Figure 1)の稼働を開始し,欧州における急速な水電解装置の製造,評価装置の需要に対応しています。

水素は,他のエネルギー源と比較しても単位質量あたりでは非常に高いエネルギー密度を持ちます。液体1 Lのガソリンと同じエネルギーを得るためには,気体で約3,000 Lの水素が必要とされますが,質量に換算すると,750 gのガソリンに対して水素は270 gとなります。ちなみに,このエネルギーを現在のリチウムイオンバッテリーに貯めるためには,その100倍の約27 kgもの質量が必要になります。このように比較しても単位質量あたりでは非常に高いエネルギー密度を持つことから,質量が重要なファクターであるモビリティのエネルギー源やエネルギー輸送の手段としても,潜在的な可能性を持っていると言えます。一方で,標準状態において気体であるが故に取り扱いが難しく,また電気,熱,あるいはe-Fuelなど他のエネルギーへ変換する際の効率の低さなど,実用化・商用化に向けての技術課題は多岐に渡ります。

HORIBAが持つ分析計測技術が燃料電池や水電解装置の新規材料探索から水素燃焼技術の開発,水素と二酸化炭素から効率的に合成燃料を作成するための触媒開発に活用されることで,カーボンニュートラル社会の実現に一翼を担えるよう貢献していきたいと考えています。