2023年秋、京都駅東部エリアに全面移転をした京都市立芸術大学(以下、京都市立芸大)。その一角に、建設された音楽ホール「堀場信吉記念ホール」のお披露目を兼ねたこけら落とし公演が11月2日に開催されました。800人収容のホールには、新ホールの完成を心待ちにしていた多くの音楽ファンが集い、京都芸大で学ぶ学生の渾身の演奏に酔いしれました。
音の響きを計算しつくしてデザインされたホール壁面は、壁材に使われた木片が持つ自然な木目と色調を活かして凹凸が配列されており、コンクリートとのコントラストが絶妙でとても美しく洗練された印象を受けます。音の反響がとても素晴らしく、息の合った演奏の一音一音に最高の響きを加えて最高の音楽を届けてくれます。
ホールに名を冠した堀場信吉(ほりばしんきち)博士は、堀場製作所(以下、HORIBA)の創業者 堀場雅夫の父で、京都帝國大学(現・京都大学)の教授として教鞭をとった人物です。京都市立芸大とのご縁は、信吉博士が京都市立芸大音楽学部の前身である京都市立音楽短期大学の初代学長に就任、その後4期13年にわたって学長を務めたことに由縁があります。
自身もバイオリンをたしなんでいた信吉博士は、音楽への造詣が深く、母校である京都大学音楽部の部長も務め、大戦中の難しい環境下で学生の音楽活動継続に尽力するなど、生涯にわたり京都市の音楽教育の発展に貢献しました。そうした功績を讃えて、京都市立芸大から新ホールの名称に信吉博士の名前を冠することをご提案いただきました。
信吉博士は本業である化学の分野でも、その後の日本の産業発展を支える基礎技術の研究とそれらを担う研究者の育成に多大な功績を残しています。
信吉博士は1907年に京都帝國大学理工科大学(現・京都大学 理学部)に入学、日本の物理化学の祖と仰がれる大幸勇吉(おおさか ゆうきち)教授のもとで学びました。卒業後いったんは企業に就職をしましたが2年ほどで大学に戻り、念願だった欧州留学を経験。オランダ、イギリス、ドイツなど欧州の大学で当時最先端の物理化学を学んだ信吉博士は、留学中に自身の研究の柱を「高圧化学、触媒化学、光化学、コロイド」の4つに定めたといわれています。1924年に京都帝國大学理学部教授に就任、1929年には大阪高槻にできた化学研究所の教授も兼務、信吉博士が率いる堀場研究室からは数多の優秀な人材が育ち、各分野をけん引する人材を輩出しました。
欧州留学と京都大学で信吉博士が心血を注いだ研究は、アンモニア合成やポリマー合成など実に幅広い工業化に応用されている化学技術であり、戦後においては食糧増産に貢献し、現代では水素利用をはじめとするエネルギー分野にも応用されるものです。いずれも各時代における社会問題解決に貢献する研究で、奇しくも堀場製作所の注力事業とも深い関わりがあります。
信吉博士は京都大学教授を退いてからも、同志社大学工学部設立のため奔走し、開学したばかりの大阪府立浪速大学(現・大阪公立大学) 、京都市立音楽短期大学の学長を兼任するなど、生涯にわたって日本の科学技術発展と後進の人材育成に尽力しました。
(左)堀場信吉博士
(右)中央4名・左から堀場信吉、 大幸勇吉、Fritz Haber、田丸 節郎の各氏。1924年12月1日京都にて撮影、この日は創業者堀場雅夫の誕生日だった
高度に計算しつくされた堀場信吉記念ホールの反響は、息の合った演奏を最高の響きに高める一方で、音の乱れも際立たせてしまいます。それだけに、この美しい音楽ホールは音楽家としての道を究め、自身の技を磨く鍛錬の場にふさわしいホールで、まさに“ほんまもん”をめざす人のための“ほんまもん”のホールだといえます。
教育としてよりよい環境をつくり、京都から次世代を担う“ほんまもん”の音楽家を育てたいとの京都市立芸大のおもいは、信吉博士が次世代教育へ注いだおもいと重なり、またHORIBAの創業精神とも重なります。そうしたおもいが重なり、堀場信吉記念ホールが実現しました。
“ほんまもん”という言葉は、HORIBAの創業者である堀場雅夫が思い入れを持って使っていた言葉です。堀場雅夫は生前 「“ほんもの”というのは、単に偽物ではない良いもの、くらいの言葉ですが、“ほんまもん”というのはそれだけではなく、人に感動を与えるもの、人の心を動かすものである」と語っています。
一音一音にかける学生の皆さんの気迫と集中力が最高の協奏曲となって心に響き、奏でられる音楽に乗って聴衆の心を打ちます。演奏者のおもいが響く“ほんまもん”のホール、京都市立芸術大学「堀場信吉記念ホール」にぜひ足を運んでみてください。