スペクトル分析が拓く次世代臨床検査とバイオ医薬品製造

ニシムラ タニカワ ジュン イバン* | |   技術論文

*株式会社堀場製作所
バイオヘルスケア技術本部
本部長

患者ごとの分子プロファイルに基づいて最適な治療を行う「精密医療」の時代を目前に控え,スペクトル分析法と人工知能(AI)の融合が,臨床検査,創薬,そしてバイオ医薬品製造の在り方を大きく変えようとしている。この変革の鍵となるのが,血液などの体液中に存在するごく低濃度のバイオマーカーを解析する検査法である。従来法よりも低侵襲で特異性が高く,がんなどの疾患の早期発見,病状や治療効果のモニタリング,および個別化治療の意思決定支援に役立つ。さらに,これらの技術はバイオ医薬品の製造にも広がっている。複雑なタンパク質医薬品や細胞・遺伝子治療薬のための生産工程をスペクトル分析でリアルタイムにモニタリングすることによって,生産の一貫性と品質の確保が可能となり,精密医療に基づく個別化治療の提供を支えている。かつては専門的な研究領域に限られていたこれらの技術は,次世代の診断・治療において,これまでにない精度,スピード,簡便性をもたらす段階に入ろうとしている。

ラマン分光,蛍光分光,質量分析などを用いたスペクトル分析法は,生体試料の分子プロファイルを測定することで,標的を絞った測定では得られない微細な生化学的変化や表現型の応答を捉えることが出来る。従来の臨床検査(IVD)では,特定の標的に対する標識試薬や前処理が必要となることが多く,結果へ影響するリスクもある。スペクトル分析法は,非破壊で,試料の前処理が最小限で済むこと,体液中の複雑な生体分子を多項目同時に検出できる利点があり,従来のIVDにおける制約のいくつかを補完できる。これらの特長から,スペクトル分析法はリキッドバイオプシーのような革新的診断に適した理想的な技術であると言える。一方で, IVDにおいてスペクトル分析法は検査室に広く普及しているとは言えない。その主な理由としては,自動化の不足,標準化されたデータベースの欠如,運用の複雑さ,機器の初期導入コストの高さ,そして臨床試験によるエビデンスの不足などが挙げられる。今後AIとスペクトル分析法の融合により,ノイズに埋もれた複雑で重なり合ったスペクトルから疾患に特徴的なわずかなパターンを検出できることが期待されている。同時に,スペクトルデータは,試料の前処理,装置の校正,環境条件(例:温度,ラマン測定における蛍光バックグラウンド)や患者属性の違いに非常に敏感である。標準化されたデータ収集・校正プロトコルがなければ,AIモデルが真の生物学的シグナルではなく誤った情報を学習してしまい,その結果バイアスが生じたり汎化性の低下を招くおそれがある。このスペクトル分析を用いた次世代検査の潜在的な可能性を最大限に引き出すためには,高品質なデータの確保,モデルの解釈可能性と説明可能性の向上,そして医療機器規制への適合が不可欠である。

同様に,これらの技術は,医薬品の創薬および製造においても大きな変革をもたらす。スペクトル分析法はプロセス分析技術(PAT)の中核として,化学反応のリアルタイムモニタリング,結晶多型の同定,連続生産フローにおける品質管理を可能にする。バイオ医薬品は既に世界の医薬品売上の30%超を占めており,低分子医薬品よりも速いペースで成長している。同時に主要規制当局(FDA,EMA,PMDA)はPATとQuality by Design(QbD)を明確に推進しており,ガイダンスや査察報告でもリアルタイム分析の重要性が増している。産業界がオフラインでのHPLCや従来の生化学アッセイによる分析から,上流・下流工程におけるインライン/オンラインモニタリングへと移行する中で,スペクトル分析法と多変量解析を活用した連続的かつ多様な条件に対応可能なプロセスコントロールは,現代のバイオ製造において最も成長が期待される領域の一つとして注目されている。

HORIBAの医療分野への取り組みは1980年代に始まり,血液計数装置において世界的に実績のある企業として現在に至るまで技術と知見を積み重ねてきた。また, 2015年から医薬品の創薬および生産プロセスを支援するソリューションの開発に注力するバイオ・ライフサイエンス分野での取り組みを開始している。これら二つの戦略は,次世代診断からバイオ医薬品の製造プロセスを改善する革新的アプローチに至るまで,ヘルスケアジャーニーを変革するという共通の目標に向かっている。社内チーム間の相乗効果を強化することで,リキッドバイオプシーや先端バイオ医薬品といった最先端領域のリーダーとの協業を促進し,将来のヘルスケアに向けた新たな価値創出を目指す。HORIBAは, IVD市場で事業を展開すると同時に,医療の未来を変革するうえで重要となる分光光学の基盤技術も持つ, 世界でも数少ない企業の一つである。複雑な生体試料をより高度に分析し, 次世代治療の製造プロセスのニーズに応えるためアルタイムで活用できるアプリケーションを実現することで, 医療の未来に貢献していく。

革新的な分析・計測技術を通じて医療・健康の分野に貢献したいという創業者・堀場雅夫の想いに着想を得て,2025年の「堀場雅夫賞」では「次世代ヘルスケアに貢献する分析・計測技術」というテーマとした。なお,本賞は社外の研究者を称えるものであり, 分析・計測の成果を広く共有して分野の発展を後押しすることを目的としている。

本号のReadoutは,科学の真の力が発見を具体的な解決策へと導くことができる点にあることを改めて想起させるものである。ヘルスケアという人類にとって最も重要な課題の一つであるヘルスケアを前進させることで,より良い世界への希望をもたらすものである。